とくべつをとくべつにしないでみると楽しい
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ケーキが好きだ。チョコレートケーキ、いちごタルトレモンタルトカスタードタルト、ニューヨークチーズケーキにスフレチーズケーキ、アップルパイ、シフォン、ショートケーキ……挙げればきりがない。
ケーキ屋さんで、彼らがショーケースにお行儀よく並んでいるさまはいつまででも見ていられる。時折「これが食べものなのか」と信じられなくなる。陳腐な言い方をするならうつくしいのだ。
同じ名前を持っていても、どのパティスリーで作られたかによって全く違うケーキになる。ショートケーキが受容する無数の解釈に惚れ惚れするし、シフォンの、どんな味であっても「シフォン」という型からは決して逸れない、可能性と縛りの共存に拍手したくなる。
ショーケースから選ばれ、自宅の食器の上でひとりぼっちになってなお、彼らのうつくしさは失われない。しかし頑なではない。ショーケースの中で光を浴び背筋を伸ばしていたそのときのまま、日常を過ごす場所に馴染んでくれる。口に入れれば上品に甘い。
喫茶店の、おしゃれなお皿の上で生クリームや粉砂糖に飾られて出てくるのも好きだ。お店のこだわりを感じられて、添えられた果物はさながら宝石で、いつもニコニコしてしまう。じっくり眺めてから、店内に投げれる音楽とともにフォークを突き立てる瞬間こそ至福と呼べる。
週に一回と言わなくても、月に三回はケーキを食べたくなってしまう。
それでも、頻繁に食べるようになったのはここ最近のことだ。
それまでの私にとってケーキとは、とくべつなものだった。誕生日や、お出かけした先や、なにかしらのお祝いで食べる、非日常だった。一年で食べるケーキは両手の指ですっぽり足りてしまうほどだったし、いざケーキを食べるのだとわかれば、うんうん悩んでとくべつな1ピースを選んだものである。一個500円近く、上等なものであればそれ以上の値段がする嗜好品は、客観的にも高級品だ。
しかし、手が届かないほど高いわけでもない。一人暮らしをするようになって気がついたけれど、自炊にしたってお弁当を買ったって、人間の一食がケーキとそれほど変わらない日はある。ケーキをご飯にしてしまうこともできるし(褒められたことではないけれど)、ちょっとした無駄遣いをやめたぶんはケーキになる。
それに、年々食べ放題が辛い。デザートのケーキに悠々とありつけない。歳を重ねるうちに、おうちでケーキを食べることも厳しくなり、そのうちひとくちを食べるのもしんどくなってしまうのかもしれないと予感させる私の弱々しい胃があった。若いうちにたくさん食べておかないと後悔してしまう気がする。
──と、まあ、ケーキがどうしても食べたい私は、以上を言い訳にして囁く。じゃあたまに食べてもいいんじゃない?
一連の話を聞いた友だちが素敵な言葉をくれた。一生に食べるケーキが増えるのはいいよね。
#一生に食べるケーキを増やせ pic.twitter.com/Cl9FU9zHla
— 七波 (@elic_nano) 2021年6月6日
かくして「#一生に食べるケーキを増やせ」のタグは生まれた。食べれば食べるほど一生に食べたケーキの数は増える。私の人生にはケーキが寄り添っている。いいじゃん、最高。
とくべつだったものを、とくべつの枠から外して、手元に置くようにしてみたのだ。ケーキは思い立ったときに食べていいものになった。
ケーキのとくべつ感もそりゃあ愛していたけれど、とくべつだからと切り離してしまうのは勿体無いことだったんだな、と今では思う。ケーキがたくさんある人生とほとんどない人生だったら、ある人生のほうが楽しい。少なくとも、私にとってはそうだ。
切り花も同じかもしれない。人からもらうべき、人に贈るべきとくべつなもの、買うなら花束で、と思っていたけれど、別に一本を自分のために買って飾るのだって自由だ。安い花瓶に、小銭で買った花を挿すようにしている。水を変えたり、水切りしたりする時間がうれしい。
とくべつなのだ、と遠ざけるより、とくべつじゃないしって、生活にしてしまうととても楽しい。もちろん、お金の余裕をどこかで作るからできることだけれど、ケーキや花に変わるなら、切り詰められるところを切り詰めるのも楽しいと思う。
とくべつをとくべつにしないことで、毎日繰り返す日常が、とくべつなものになるような気がしている。
というわけで、今月もケーキを食べます。